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【人から問われること】

人が描いた絵やイラストなどを見る際、自分には様々な疑問が浮かびます。

なぜ、この色なんだろう?

なぜ、このサイズなのだ?

なぜ、この構図にしたのだろう?

このような疑問に対し、作品の作り手から直接説明を聞くことが出来れば作品への理解もより深まり、作品を見る目も変わってくると思うのですが、多くの場合は作品に添えられたキャプションなどを読んで、自分なりに理解をする(したつもりになる)ということがほとんどです。

自分が人の作品を鑑賞して抱くなぜ?という疑問が、自分が描く迷路にも向けられるとした場合、明確に理由を述べられることは重要だと考えます。鑑賞者からの「なぜ、青い色で塗っているのですか?」という問いに対し「青色が好きだからです」と答えたり、「なぜ、この形なのですか?」と問われて「自分の感性から出た形です」と答えることはしたくありません。

およそ作品と呼ばれるものは、作り手が色々と考えた結果そのものです。経験からくる直感やコンセプトに従った偶然性を伴う場合などを除いて、漠然とした回答しか出来ないのは考えていないと同義のように思います。

自分が迷路作家になろうと思い至ってから3年あまりの月日が過ぎました。この間に知り合った人たちからは、似たような質問をされることがあります。丁寧に答える場合もあれば、表面的なことしか言わない場合もありますが、これまで人から問われることが多かったものを質疑応答形式で記してみます。

なぜ、そのサイズ(1メートル×70センチ)なのですか?

迷路作家になろうと思った際、最初から海外でも通用する作品を作ろうと決めたからです。海外のアートの現場で仕事をしていた知人に連絡を取って、建築設計の仕事には区切りを付けて迷路作家になろうと思うと伝えたところ、海外では大きなサイズの作品の方が喜ばれるとのアドバイスを受けました。自分が制作を行っている部屋に置くことができ、実際の制作に支障が出ない最大サイズを検討した結果、長手方向1メートルという結論に至りました。短辺の70センチという数字は、CAD上で長方形を描いてバランスを見ていったところ、1メートルに対してのバランスがちょうどよく感じたので決定した寸法です。あとから気付いたのですが、結果としてほぼ白銀比の比率になっています。

なぜ、そのペン(製図用インクペン)で描くのですか?

作品として長く残せるものにしたかったからです。製図された図面は長期の保存にも耐え、線が退色しないことを求められます。また、製図で使われる線は、線自体の寸法に対しても厳密な正確さが求められ、通常の筆記具ではあまりない0.1ミリ巾から豊富な線巾の寸法を揃えています。迷路の線を描くとした場合、製図用のペンは最適な筆記具だと考えました。ステッドラー社の製図ペンを選択したのは、製図用品をつくる会社としての歴史が長く信頼があり、顔料インクの耐候性なども選定の基準になりました。

なぜ、その紙(2ミリ厚のケントボード)に描くのですか?

作品をものとして見た場合、通常の紙の厚さでは頼りないと考えたからです。自分で必要なサイズの画面を切り出すとした場合、余りに厚過ぎると切断面の垂直確保が困難になってくるのと、きれいに切断すること自体が難しくなってくるので、自分でも加工をしやすい厚さの2ミリにしました。個人的な感覚ではよほど何かを切り慣れていない限り、5ミリくらいの厚さからカッターなどでの切断面が少しずつ斜めになり始めると思います。ケントボードを選んだのはフラットな面として見た場合の表面の硬質感が、迷路の線に対して余計な表情と印象などを与えず最適な面だと考えました。

なぜ、パソコンで描かずに手書きなのですか?

パソコンを使って自分が制作しているような迷路を描いて人に見せた場合、制作に注がれた時間の存在と重みが正確に伝わらなくなると考えるからです。コンピューターが持っている、早く、簡単で、正確というイメージにより、作品から受ける時間の捉え方が歪められてしまうのではないかと思いました。人間は感じることができる生き物なので、手書きで描かれた作品を見れば、例え具体的な制作時間はわからないとしても、目の前にある作品に注がれた時間の存在を、己の身体感覚に置き換えて想像することができるはずです。積み重ねられた時間が生み出す力はあると信じるので、手書きで制作します。

なぜ、こまかい迷路を描くのですか?

同じ画面サイズを迷路で埋めるなら、情報量がより大きくなるからです。情報量が多いということは、それだけ画面に宿る力は増していきます。ただし、こまかければこまかいほど良いというものではなく、実際に迷路として子どもたちが遊べる線の巾までということが目安になります。

なぜ、線にこだわるのですか?

作品が印刷されて、本として流通させることを前提としているためです。自分は趣味や道楽で作品制作をしているわけではなく、商品として流通し、実際に子どもたちに遊んで貰える迷路を作ることを目標に制作しています。2つ前の設問と逆転しますが、手書きで「パソコンで出力したような線」を実現することは、自分が目指す「印刷にも耐えうる線」の基準のひとつです。ひとつひとつの線を作り込むことは細部の完成度を上げることにもなり、結果、全体としての作品の強度を高めていくことにも繋がると思っています。

通り抜けたあとが絵になるような迷路は作らないのですか?

現時点では作りたいとは思いません。そのような迷路はすでにジャンルとして確立しており、素晴らしい作品を作っている迷路作家は世界中にいるので、自分が描く必然性を感じません。同様に、何かの形をした迷路(例えば建物や動物、人物など)についても、すでにジャンルとして確立しており、自分が描こうとは思いません。自分が作りたい迷路のデザイン性については、特定の文化には依存せず、どこの国の作家が描いたものなのかよくわからないものを作りたいのです。何かの形が浮かびあがる、あるいは何かの形をしている迷路というのは、自分がこれまで生きてきた中で外部から受けてきたものの影響が強く出ます。そのような影響を排除した先にある迷路が、自分が作るべき迷路だと考えます。

なぜ、建築の設計を続けないのですか?

職業として、生き方としての限界が想像できてしまったためです。仮に今後、現役を退くまで、こちらが望むように設計の仕事があったとして、人生を振り返った際、年老いた自分がどのように思うのかを考えてみました。考える際には、全てが自分の理想どおりにいくとして想像してみたのですが、ありきたりの言葉で言えば、一度限りの人生、これでよかったのだろうかという深い疑問と後悔を死ぬまで持ち続けるのだろうなと思いました。これは、建築設計という職業がつまらない職業だと言っているわけではなく、個人的な適性の問題であるとか、自分の生き方に対する信念の問題です。なお、積極的な営業は行っていませんが知り合いからの仕事であるならば、今も細々と図面を書いたり模型を作ったりということは行っているので、現時点では建築の設計を完全に辞めてしまったというわけではありません。

迷路作家になれなかった場合のことは考えていますか?

あまり考えていません。

自分でも怖いくらいに自意識過剰ですが、自分の頭の中にある迷路の作品をイメージどおりに制作できれば、自分は迷路作家になれると信じ込んでいます。

あなたは夢があっていいですね

夢は実現しないからこそ夢なのだと思います。

実際の受け答えでは「いやあ、夢って感じでもないんですけどねぇ…」などと軽く受け流すことも多いですが、自分にとって迷路作家を目指すという行為は具体的目標であり、夢ということではありません。目標を達成するために勉強を進める中で、新たに得た知識や言葉が自分にとっては不利な内容のものであったとしても、それが現実であるならば素直に受け入れるという覚悟も出来ています。日々の制作は、将来の自分に対する投資であり、現時点では苦行だと感じます。

Autechre/Gantz Graf


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