【迷路の構造についての思考】
迷路の制作に着手して以来、日常生活における思考が大きく変わりました。ことさら時間の使い方に関する思考は、最も顕著に変わったように思います。作品を制作するための時間の確保は樹木で言えば幹のように存在していて、この幹に決定的に害を成すと判断されることに対しては迷うこと無く遮断し、日常生活の空いた時間では、迷路の構造について思考することが増えました。
迷路でいう構造とは目に見える形で現れる図像です。これから自分が作りたい迷路は子どもたちに届けるものであるということが原則であるため、子どもたちが実際に楽しく遊べる迷路の構造の在り方と、迷路を使った表現として自分が納得できる迷路の構造の在り方については、なんらかの方向性や結論を得るべき大きな課題として存在しています。
迷路の構造の中に普遍性を備えさせるためには、どのような構造の在り方が自分の納得できる迷路の姿としてあるのか日々考えながら過ごしていますが、前回の記事で書いた山本基さんの展覧会の中にひとつの光明を見出すことが出来ました。瀬戸内で観た山本さんの作品は塩で描いたうずまき模様であり、その構造は自然界で発生するうずまきの成り立ち(=構造)を研究した上で、作家自ら会場に滞在しながら即興にて制作されたものです。
山本さんの作品を観て美しいと感じたり、いつまでも見飽きないと感じた自分の感情が何を見た感情に近いものであったかと言えば、それは例えば、海で釣りをしながらぼーっと海面とそこにある波を見ているときであったり、雄大な阿蘇の大地を見たときであったり、夕暮れの雲の流れを見ているとき、あるいは砂浜に落ちている石ころの表面を眺めてるときのようなものでした。
自然の理が生み出すものの美しさの中には、一定の普遍性があると思います。自然の理と書くと人の手により作られたものは無関係のようにも見えますが、人の手による多くのものも自然の理の上での構造により成り立っています。 ガウディ建築の構造の美しさは、逆さ吊り実験で得られた力学的構造曲線が自然の理に従った姿そのものであることであったり、工具や工業製品などの基本的デザインが自然の力の流れなどから導き出されたものであることなど、必然性から出てきた形をしているものは、およそ美しくなるように思います。
感性のみで仕上げた作品には、個人的理由による必然性は存在したとしても、それは他者と共有認識できる必然性ではない独りよがりなものとして存在しやすく、第三者に対して作品の必然性を語る際にも説得力が弱くなるという思いが、自分が迷路の構造を思考する根底にありました。現時点で明確にこれが自分の迷路の構造の核にあるものだと言えるものは得ることが出来ていませんが、ぼんやりとしたビジョンは見え始めています。日々の思考の中でこのビジョンを固めていき、作品の中に生かしていきたいです。
問・現在制作している自分の作品の中に構造は存在しているのか?
この問いを自問自答する中、自分が出した答えは「構造は存在している」です。自分が作品制作を行う際の要として「迷路の細胞」という概念が存在します。この概念があるからこそ間違いなく迷路を描き進めることが出来るのですが、改めて制作中の作品を眺めてみると、迷路の構造がセル構造を成しています。これは、構造はコンセプトに従って現れるということなのだと自己理解しました。
作品のコンセプトを深く考えることにより必然的にその構造も決まってきて、その構造は、目に見える形として作品の上にも表れてくるのだと思います。
宮内優里/digo_