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【定義づけるという事】

GEISAI#15の開催までちょうど1ヶ月になりました。来月の今頃は会場の設営も終え、ホテルで眠っていると思うと不思議な気がします。現在、ラビリンスの制作に加えその他に必要と考えるものの準備も行っているので、慌しい毎日を過ごしていますが、体調を崩さず残り1ヶ月を乗り切っていきたいです。

前回の記事の更新からもちょうど1ヶ月が経過してしまいましたが、今回の記事では制作の息抜きに覗き見しているTwitterのつぶやきを眺めていて思ったことを書きます。自分自身がTwitterでつぶやくコトは一切ないのですが、色んな人たちのつぶやきと、その人の人との繋がりなどを見ていると、およそ同業者同士であるとか、趣味嗜好が近いもの同士、同年代同士の繋がりが基本にあり、それにプラスして、興味がある分野、自分が身を置く分野の第一線で活躍している人などもフォローして、その人なりの考えや主義主張などをつぶやいている場面を目にするコトが多いです。

現在の自分が興味のある分野はアート・芸術・デザイン等に関する分野になるので、美大生、芸大生なども含めて、それらに関わっている方々のつぶやきを眺めるコトが多いのですが、それぞれが表現をしたい人たちなので、前述したその人なりの考えや主義主張を発信しているコトが多く、自分以外の人の考えや知識を得るという意味でとても勉強にもなり、刺激も得ている反面、時に少し反論したくなる考えも目にします。

Twitter上で人の考えを否定したり反論する気もないので基本的には黙っていますが、自分が引っ掛かる(それは少し違うのでは?と異を唱えたくなる)考えや主義主張には共通するコトがあり、それは「なんでもあり」という考えに繋がっていくような言葉です。具体的な例を挙げると

・ 漫画も音楽もイラストも、人が感性で作るものは全てアートである

・ たとえ落書きであったとしても、全ての絵には描いた瞬間に意味が生まれる

などの考え(主張)になるのですが、これらの「全てを包容してしまう」ような考え方は、例えるなら「海辺に落ちている石くれは、全て美しい」と言ってるのに近いと感じます。確かに、海辺に落ちている石くれもそれぞれに表情と個性があり、とてもきれいなものだと思いますし、「全て美しい」と言われて納得するものはあるので否定は出来ないですが、少なくとも何かを表現したいと思っている人間ならば、多くの石くれの中でも飛び抜けて光っている石を見付ける(作り出す)というコトが使命であると思うので、全てを前向きに受け入れてしまうという考え方は、少し違うのではないかというのが自分の考えです。

自分が海岸で拾ってきた石。たくさんの石くれの中で、確かに光っていました。

ここで話を記事のタイトルに戻していきますが、上で具体例として挙げたような言葉は、結論めいた言い方の言葉でありながら、何故、そう考えるのか?という部分に於いて、なんら定義(説明)が成されてなく、また、定義しようがない曖昧で漠然とした言葉であり、定義されていないもの、あるいは定義できないようなものはアートではないと思います。アートと聞くと、感性のような個人の主観にウェイトを置いた部分での捉え方が重要だと思われがちな気がしますし(作品を観て自分の感じるママに感じれば良いという捉え方)、自分自身、迷路の制作を始める以前は「この絵は色使いがスゴイなあ!」であるとか、「これは、モノスゴイ形をしている!」と言った表面的な部分での見方をしていましたが、今の自分が考えるアートとは、作り手である作家の考えや主義主張、メッセージなどを、作家自身が己の感性と最善と考える表現手法を用いて社会に表明を行う行為であり、表明を行うための過程と行為の結果として出来上がるものがアートなのだと考えます。そして、その為には自分自身の考えを定義していくコトが極めて重要であると思います。

【定義】

物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。(国語辞書より)

長く描き続けているラビリンスですが、未だ完成が見えてきません。残り1ヶ月でどれくらいの追い込みが出来るのか不明ですが、無心に描いていきます。


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