【正解へと至る道】
早いもので、2010年も残すところあとわずかになってきました。自分にとっての2010年は、例年以上にあちこちと国内を移動する機会が多い1年で、およそ1ヶ月半~2ヶ月おきに1週間から半月程度の旅をしましたが、先日の週末には気心の知れた知人と共に、福岡県の小倉、博多へと2泊3日の旅に出掛けてきました。
基本的に土日、祝日などには縁のない生活を送っているので、数ヶ月おきの旅行で気分転換を図っているのですが、年内にあと1回、来年開催のGEISAIの準備も兼ね、数日間の日程で県外に出掛ける予定なので、事故のないように行ってきたいと思います。
さて、前回の記事の最後に、ラビリンスの入口から出口まで道が繋がったと書きました。この入口から出口へと続く「正解へと至る道」は企業秘密のようなもので、その全貌を皆さんの前にそのまま公開する事はあり得ないのですが、せっかく「制作日記」というカテゴリーを作っていますので、ごく一部のみではありますが紹介したいと思います。
上の写真がラビリンスの「正解へと至る道」です。制作中のラビリンスの上にトレーシングペーパーを重ね、正解ルートを写し取りました。
過去に書いた迷路は正解のルートを示す記録のようなものは一切作成しておらず、いわば書いた本人ですら解くことが困難な迷路だったのですが、今後、自分が描く迷路については、人に見せる目的ではなく自分の迷路が迷路であるという根拠として、自分自身の納得のために正解ルートの控えを記録として残そうと思うようになりました。
これは、自分が自分の迷路を広く多数の第三者の方たちに見て貰うとした場合にはすごく重要なことで、過去の迷路に於いて正解ルートを記録していなかったというのは、そもそも過去に書いた迷路というのは、自分が描きたいから描いたというものなので、人に見せたり、また、人に解かせてみたり、あるいは自分自身で解いてみるといった「描いた迷路を使って何かをする」という考えが皆無に近く、正解を用意する必然性が自分の中ではほとんど無かったという事が大きかったと思います。
しかし、今後、自分が描く迷路を「迷路」として世間に発表していくとした場合、何かの必要性に迫られた際には、明確に正解ルートを示せる状態を作っておかないと、それは「迷路ではないかも知れない」という懸念(疑念)を含んでしまうと感じたのです。自分は、サイトメニューにある「作品について」という項目の中で「自分の迷路は人の人生であるという解釈をしています」と書きました。入口(生)があって出口(死)があり、複雑で膨大な選択肢がある中をさ迷い歩くという迷路を構成する必要要件がそのまま人生に見えるのでそのように書いたのですが、現実の人生に正解なんてものは無いと思うので、迷路は人の人生であるという解釈は「迷路=(人の)人生」ではなく「迷路≒(人の)人生」と表現する方が正しいでしょうか。
人の人生に正解が無い以上、人の人生に見立てている自分の迷路に正解は不要で、正解へと至る道は無いママでも良いのですが、それは迷路ではない事になります。自分は迷路を使った表現をしたいので、「正解へと至る道」を用意しつつ、これからも自分にしか表現出来ないと考える迷路作品の制作に取り組んでいきたいと思います。