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【何故、自分は迷路を描くのか】

今回の記事はここ最近の自分が考えていたコトを下敷きに、自分の作品作りへの考え方などを自分自身の備忘録の意味も持たせつつ書いてみたいと思います。自分にしか描けない迷路があるという確信と閃きを受けた際、自分の中にあったのは表現としての革新性が主題としてあって、具体的に迷路を使ってどのような表現が出来るのか?というアイデアをスケッチするコトから始めました。スケッチを終えた後はそれらのアイデアを具現化(作品化)していく作業を行おうと、作業に必要な画材を調べたり、制作が行える環境作りを行ったり、前回の記事にある迷路を取り巻く情報のリサーチを行って「ラビリンス」の制作に取り掛かったのです。

そして、現在に至るワケですが、元々「表現としての革新性」が主題としてあったので、これはつまり、目に見える表面的な部分の話に終始していて、作品に対しての考え方、あるいはメッセージ性など、作品に包含させるべき中身の部分が抜け落ちているように思い始めたのです。

-何故、迷路を描くのか?

この簡単な1つの問いに対し、自分自身の回答が「描きたいから描いている」といった自己の範疇で終わってしまう自己欲求としての言葉だけでなく、それを超えた部分での自分の作品への考え方、主義などを、人に明確に語れる必要があると考え始めました。そのためには迷路と迷宮の歴史や扱われ方などの文脈を紐解き、自分が描く迷路をこれらの文脈と照らし合わせた上での位置付けを行い、自分が自分の迷路を使って目指すべきテーマや目標を設定し、作品作りに於いてはこのテーマに沿って制作を行っていくべきであるという、当たり前と言えば当たり前の結論に至ったのです。

迷路と迷宮は、古代より社会の中に存在していて、それはギリシャ神話の中や、エジプトのピラミッド、ヴェルサイユ宮殿の庭園迷路など、異なる文化と社会の中でその扱い方、考え方に違いはあれども、迷路の発生以後、歴史の中で続いています。このブログの記事の中でも何回か触れましたが、迷路と迷宮は明確に違います。迷路の方は「入り口と出口があり、その位置は任意の場所でよく、入り口と出口を繋ぐ通路部分には複数の分岐があり、この分岐の位置も任意なもの」となっていて、迷宮の方は「分岐のない一方通行の道が振り子のように左右に方向転換しながら、迷宮の中心に向かって続いているもの」になります。

自分自身、この違いを知ったのは迷路について色々と調べていく中でのコトでしたが、多くの人たちは迷路と迷宮の違いを正確には理解してなく、それぞれの言葉から受けるイメージの違いから来る認識しかしていなかったのではないでしょうか?(迷路は平面的なモノで、迷宮は空間自体が迷路になっているモノだというような認識)

ここまで書いたコトを踏まえ、自分の迷路への考えを深めるように努めていたのですが、迷宮の方は極めて秩序だったモノで、神秘性、宗教性、知性、哲学などが盛り込まれ、ある種、シンボリックなモノとして歴史の中に存在してきており、対して迷路の方は、秩序だったモノとは対極の自由度があり、だからこそ誰でも気軽に作り出すコトができ、それをゲームやパズルとして楽しむモノとしての文化が発達したとすれば、古代にはすでに迷路と迷宮は混同されてきたという迷路と迷宮それぞれの違いに着目し、中でも迷宮が持っている神秘性という、目に見えない力とは何なのか?というコトをテーマに、迷路の中にもある目には見えない力を自分が描く迷路で強く強調させるという行為を、「超迷路-SUPER LABYRINTH-」の最初の主題として取り組んでみようと思います。

迷路に宿る神秘性、不思議な力があるとして、その力が目に見える形で空間に影響を与えるとした場合、それはどのような空間変異を与えるのか?

それを、来年3月に開催のGEISAI#15の場で皆さんの前に発表出来ればと思います。


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